夢想庵道草日記「Urakawa Day by day(ウラカワその日その日)」
地域を楽しみ、地域を知り、地域から学び、地域の過去・現在・未来をつなぐ人間学を探求する「浦河地域学研究所」を主宰する夢想庵(ブログネーム:ジンペイ)のフィールド・ノート兼備忘録。
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「ちのみ」はかつて祭場だった
浦河町の中心市街地の東端、「東町」地区を流れる「チノミ川」。漢字では「乳呑」があてられ、「チノミ」と読ませている。
その由来について考えるとき、まずその漢字表記と音から、「乳呑児=乳飲み子」、母と子、育児に関係したエピソードなどを思い浮かべるひとは少なくないだろう。たとえば、神社仏閣やお地蔵さんの由来伝説で、お乳がでない、あるいは出が悪い人が、そこの湧き水を飲んだらお乳が出るようになった、出がよくなった、などといった類の言い伝えなど。さて、浦河の「チノミ」の場合はいかに?
浦河の「チノミ」は、アイヌ語の「チ・ノミ・シリ=我ら・礼拝する・山」に由来する、いわゆるアイヌ語地名起源の地名らしい。アイヌ語地名研究者の山田秀三氏は、アイヌ文化の伝承者であった故浦川タレさんから聞いた話として、東町の東端に突き出た丘陵の上がその場所であり(現在は国道が切り通しになって、海側の丘陵の先端が独立した岩山のようになっている)、「パセオンカミ」という礼拝の儀礼の際には、荻伏から様似までのコタンの長老たちが集まって、イナウ(木幣)立てて祭事を行ったところだった、とその著書に記している(『北海道の地名』北海道新聞社1984)。
1891(明治24)年に永田方正によって編さんされた『北海道蝦夷語地名解』の浦河の項には、「チノミシリ 祈祷場 神を招祭して吾人の幸福を祈る処」の記載がある。遡って、幕末にこのあたりを踏査した探検家松浦武四郎は、「チノミは川の名で、祈るという意味。昔、化け物が住んでいて住人を困らせたが、あるアイヌの人が木幣を立ててお祈りしたところいなくなったので、この名がついた」(『戌午東西蝦夷山川地理取調日誌』下 北海道出版企画センター 1985)と書き残している。
このあたりは、明治初年に「茅実(ちのみ)村」となり、明治15年には「浦河村」、「茅実村」、「宜保(へしほ)村」、「鱗別(うろこべつ)村」の4か村が合併して「浦河村」になった際にその一部となったが、もともとの地名であった「ちのみ」が現在も字名として残ったものである。

その由来について考えるとき、まずその漢字表記と音から、「乳呑児=乳飲み子」、母と子、育児に関係したエピソードなどを思い浮かべるひとは少なくないだろう。たとえば、神社仏閣やお地蔵さんの由来伝説で、お乳がでない、あるいは出が悪い人が、そこの湧き水を飲んだらお乳が出るようになった、出がよくなった、などといった類の言い伝えなど。さて、浦河の「チノミ」の場合はいかに?
浦河の「チノミ」は、アイヌ語の「チ・ノミ・シリ=我ら・礼拝する・山」に由来する、いわゆるアイヌ語地名起源の地名らしい。アイヌ語地名研究者の山田秀三氏は、アイヌ文化の伝承者であった故浦川タレさんから聞いた話として、東町の東端に突き出た丘陵の上がその場所であり(現在は国道が切り通しになって、海側の丘陵の先端が独立した岩山のようになっている)、「パセオンカミ」という礼拝の儀礼の際には、荻伏から様似までのコタンの長老たちが集まって、イナウ(木幣)立てて祭事を行ったところだった、とその著書に記している(『北海道の地名』北海道新聞社1984)。
1891(明治24)年に永田方正によって編さんされた『北海道蝦夷語地名解』の浦河の項には、「チノミシリ 祈祷場 神を招祭して吾人の幸福を祈る処」の記載がある。遡って、幕末にこのあたりを踏査した探検家松浦武四郎は、「チノミは川の名で、祈るという意味。昔、化け物が住んでいて住人を困らせたが、あるアイヌの人が木幣を立ててお祈りしたところいなくなったので、この名がついた」(『戌午東西蝦夷山川地理取調日誌』下 北海道出版企画センター 1985)と書き残している。
このあたりは、明治初年に「茅実(ちのみ)村」となり、明治15年には「浦河村」、「茅実村」、「宜保(へしほ)村」、「鱗別(うろこべつ)村」の4か村が合併して「浦河村」になった際にその一部となったが、もともとの地名であった「ちのみ」が現在も字名として残ったものである。

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